2012年3月26日月曜日

クレヨンしんちゃん

先日、『クレヨンしんちゃん』を見ていて、思ったことがある。
しんちゃんのおバカとは正反対に、そこに出てくる大人が実に大人らしい。

特にねねちゃんのママは大人だと思う。
彼女は何歳なのかわからないが、子供の年齢を考えると、そこまでベテランというわけではなさそうだ。

彼女はしんちゃんの行動にイライラすることがよくあるが、その怒りを表すのは少なくとも彼がいない時ではないだろうか。(たまにねねちゃんはその光景を目の当りにしてしまうのだが)

また、一度怒っても、次のシーンでは楽しそうに笑っている。
あの笑顔は作り笑いではないことは言うまでもない。

何が言いたいのかというと、
大人の態度って
苦手な相手にも平等に対応することではないかと思う。

さらに、人の一部分を嫌いになっても、その人全体を嫌いにならない。


現実では、一度裏切られると、もう信用できなくなったり、
奇妙な意見を言う人の人格を否定したり。

それをいったん態度や評価を保留するというのが大人の態度なのではないだろうか。

2012年3月18日日曜日

世間2


世間について考えていたところ、またひとつ奇妙な体験をした。

ある半島に来ていたときだった。
僕は朝に海岸線を散歩していた。
すると、前から老夫婦がやってきて僕を見るなり、自然に挨拶をしてくれた。
僕は挨拶のタイミングがずれた。

僕の地元でも朝散歩しているとそのような現象は起きる。
しかし、コミュニティのメンバーということで顔見知りである。

でも今回のは違った。
どこの馬の骨か分からないものに挨拶ができる。
なんか都会ではあまりないなと月並みな気持ちになった。

そこで、もう少し思考を進めようと思ったのだが、
あの老夫婦は世間とかそういう概念から僕に挨拶をしてくれたのではないと思った。
別に僕をそのコミュニティに入れようというような、魂胆はなく
ただ前から人が来たので挨拶をしたというだけ。

だから僕はそういうものなんだなって咀嚼した。
よく考えがまとまらないけど、なんかすっきりした。

2012年3月12日月曜日

世間

今日は世間についての話。
最近自分に起こったことから二つの世間について考察してみる。

ひとつめ
この春休み中に帰省した。
ずっと地元に残っている人くらいしか遊べなかったわけだが
彼らから面白い話を聞いた。

よくある恋バナなのだが、地元の人たちは、中学生のころから世間が変わっていないらしいことを知った。
つまり、「元彼が~」という話に出てくる人が、全て地元の人で構成されていて、そのどれも僕が中学や高校で聞いたことがある人たちだった。

勿論、僕が知らない人も出てくるわけだけど、その人たちを僕が知っているかのように話を進める。

つまり世間が狭いということ。
もしかしたら、この言葉はマイナスの意味合いがあるのかもしれない。
しかし、実際はそれだけ関係が密だということ。

大学生になって、地元から出てきた俺にとっては、そのような関係があまり想像できなかったのだが、
こうして考えてみると「あなたにとって大切な人ほどすぐそばにいる」のかもしれないな。

いや、別にロマンチックな話じゃなくて、
狭い世間の中でも幸せに暮らしてるんだなあみたいな。
やっとばあちゃんたちの「隣の山口さんのところの息子さんは今年から大学生ですって」っていう世間話が分かった気がする。

それは、彼ら彼女らの中での共通の話題だったんだな。

ふたつめ
僕は世間を広げようと色々なところに出ていくんだけど、
その日は色々な大学から人が集まるやつだった。

すると、僕と話す初対面の人は、まず僕の名札を見る。
その時に彼らが見ているのは僕の名前ではなく
大学名だということに気が付いた。

大学名を見ることで、彼らは僕の何かを知ったらしい。
中には、大学名を見てうなずいていく人も居た。


大学名で知れるのはとりあえず、テストがどれほど出来るのかくらい。
しかし、僕はこの大学の名前を背負っていかなくてはいけないらしい。

就活の際も、大学名が聞かれることもあるらしい。
そのときは、それを聞いて僕個人の能力をはかる目安にするというより、
僕の属する世間を見ているらしい。

つまり、優秀な大学だったら、その友達も優秀なはずで中には官僚になっているものも多くいるだろうから、将来的に貢献してくれそうだ。
、みたいな感じ。



ひとつめは世間なんか気にしなくても幸せに生きていけるよっていう話。
ふたつめは世間は今後もあなたから離れないよっていう話。

世間ってなんなんですかね。

2012年3月7日水曜日

教養不要論?

今日は教養について書いてみようと思う。
特に最近よく言われる「そんなこと知っててなんのためになるの?」というような教養不要論について。

そもそも教養とはなんだろう。
簡単に言えば、三島由紀夫の小説やシェイクスピアの戯曲をたしなむこと。
なんか頭よさそうに見えることをすること。

当然、それらはかなり難しい。
なかなか理解できる人はいない。
それを苦心して理解しても、何になるのであろう。

それでも、「教養はつけておけよ」なんて僕らの上の世代は言う。
なぜ、そんなことを言うのだろう。


それは、それが話のタネになるから。
僕らの上の世代はテレビやインターネットは満足に整備されていなかった。
つまり、共通の話題というものが今に比べて少なかった。
だから、教養っていうものは必要だった。

もう一つの理由は、それを知っていることで、貴族階級として認められていたから。
当然、当時は誰しも教育を受けられるわけではないし、ある意味「無駄な」学問をできるのはお金持ちだけであった。
内容が分かっていたかどうかではなく、教養があるようにふるまうことで、お金持ちとしてのアイデンティティを保証されたのだ。

では、現代の文脈で考えてみよう。
すると、教養の存在理由は完全に失われている。
テレビで見た話題をもって、会話をすればいいし、高級車をかえば、とりあえずアイデンティティを確立出来る。
なにも、訳わからない戯曲やコンサートを見に行く必要はないし、別にお金持ちじゃなくても、コンサートに行ける。

これが、教養不要論につながるわけ。
つまり、大学での一般教養が無意味に思えるというわけ。
今の授業カリキュラムは、このことを踏まえて、変わっているし
何かを知ることは楽しいと思う。

しかし、おおかた意味がないって思うんじゃないかな。

と、まあ教養をたたいてきたわけだが、実は僕は教養に助けてもらったことが何回かある。
つまり教養が役に立ったことがあるのだ。

その例を二つほど。

一つ目は、話に説得力が増すということ。
教養や知識ってそれだけで格が高いというか、それを持ち出されたら圧倒してしまうと思う。

僕はけっこう、相談をされるんだが、そういうとき相手からどうすればいいかを聞かれたとき
自分の考えを相手に話す。
そんなときできるだけ、たとえ話をいれるといい。
そのたとえ話に教養が出てくるというわけ。
僕なんかよりも偉い人もこういってるんだから、そうなのかもしれない。
という風に案外信じてもらえれるものだ。
教養って信頼を得るのにも有効だと思う。


二つ目は単純に知り合いが増える。
さっき、テレビの話題で十分じゃないかって言ったけど、この多様性の時代に皆が皆AKB48が好きなわけがない。
さらに、テレビ離れも起きている。

となると、テレビやインターネット以外にも話のタネを持っておくと、さらに多くの人と関われるかもしれない。

僕はあまり喋ったことがない先輩がいた。
特に話題もないから。

でもあるとき、友人が僕に新聞の一面に載っていた事件について質問をしてきた。
僕はたまたま、その辺の知識を持っていて、彼に説明してやった。

すると、それを聞いていた先輩は食いついてきて、その類の話をするようになった。
先輩は就活生ということもあり、そういう情報を欲していたらしい。
しかし、あまりまわりにそういう人がいなかった。

それからというもの、僕も色々教えてもらえるし、僕も知ったことを先輩に話すようになった。
案外、教養の繋がりは強くて、印象にも残る。


これが、最近経験した教養が役に立った例。
こうやって考えると、純粋に無駄なことってないのかもしれない。
結局なにかの役に立つのだ。

だから、もう少し、教養ってものについて考えてみよう。

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