2012年3月7日水曜日

教養不要論?

今日は教養について書いてみようと思う。
特に最近よく言われる「そんなこと知っててなんのためになるの?」というような教養不要論について。

そもそも教養とはなんだろう。
簡単に言えば、三島由紀夫の小説やシェイクスピアの戯曲をたしなむこと。
なんか頭よさそうに見えることをすること。

当然、それらはかなり難しい。
なかなか理解できる人はいない。
それを苦心して理解しても、何になるのであろう。

それでも、「教養はつけておけよ」なんて僕らの上の世代は言う。
なぜ、そんなことを言うのだろう。


それは、それが話のタネになるから。
僕らの上の世代はテレビやインターネットは満足に整備されていなかった。
つまり、共通の話題というものが今に比べて少なかった。
だから、教養っていうものは必要だった。

もう一つの理由は、それを知っていることで、貴族階級として認められていたから。
当然、当時は誰しも教育を受けられるわけではないし、ある意味「無駄な」学問をできるのはお金持ちだけであった。
内容が分かっていたかどうかではなく、教養があるようにふるまうことで、お金持ちとしてのアイデンティティを保証されたのだ。

では、現代の文脈で考えてみよう。
すると、教養の存在理由は完全に失われている。
テレビで見た話題をもって、会話をすればいいし、高級車をかえば、とりあえずアイデンティティを確立出来る。
なにも、訳わからない戯曲やコンサートを見に行く必要はないし、別にお金持ちじゃなくても、コンサートに行ける。

これが、教養不要論につながるわけ。
つまり、大学での一般教養が無意味に思えるというわけ。
今の授業カリキュラムは、このことを踏まえて、変わっているし
何かを知ることは楽しいと思う。

しかし、おおかた意味がないって思うんじゃないかな。

と、まあ教養をたたいてきたわけだが、実は僕は教養に助けてもらったことが何回かある。
つまり教養が役に立ったことがあるのだ。

その例を二つほど。

一つ目は、話に説得力が増すということ。
教養や知識ってそれだけで格が高いというか、それを持ち出されたら圧倒してしまうと思う。

僕はけっこう、相談をされるんだが、そういうとき相手からどうすればいいかを聞かれたとき
自分の考えを相手に話す。
そんなときできるだけ、たとえ話をいれるといい。
そのたとえ話に教養が出てくるというわけ。
僕なんかよりも偉い人もこういってるんだから、そうなのかもしれない。
という風に案外信じてもらえれるものだ。
教養って信頼を得るのにも有効だと思う。


二つ目は単純に知り合いが増える。
さっき、テレビの話題で十分じゃないかって言ったけど、この多様性の時代に皆が皆AKB48が好きなわけがない。
さらに、テレビ離れも起きている。

となると、テレビやインターネット以外にも話のタネを持っておくと、さらに多くの人と関われるかもしれない。

僕はあまり喋ったことがない先輩がいた。
特に話題もないから。

でもあるとき、友人が僕に新聞の一面に載っていた事件について質問をしてきた。
僕はたまたま、その辺の知識を持っていて、彼に説明してやった。

すると、それを聞いていた先輩は食いついてきて、その類の話をするようになった。
先輩は就活生ということもあり、そういう情報を欲していたらしい。
しかし、あまりまわりにそういう人がいなかった。

それからというもの、僕も色々教えてもらえるし、僕も知ったことを先輩に話すようになった。
案外、教養の繋がりは強くて、印象にも残る。


これが、最近経験した教養が役に立った例。
こうやって考えると、純粋に無駄なことってないのかもしれない。
結局なにかの役に立つのだ。

だから、もう少し、教養ってものについて考えてみよう。

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