2012年6月14日木曜日

ネガティブエネルギー

周りに、やけに頑張り屋な人っていませんか?
なんでそんなに頑張るんだと思いますか?

一つの理由は過去にトラウマや、苦い経験があるんです。

この力をネガティブエネルギーと名付けたいと思います。

彼らは、過去のつらい経験をなんとかカバーアップしたいから頑張ってるんです。

大学入試で失敗した人が、その時なんとか自分を保つために「行った大学で頑張って見返してやる」とか言いますよね。

あの力ってすごいんです。


でも一方で、そんな経験をしただけで、腐ってしまう人もいる。
重要なのはこういう人のネガティブエネルギーを引き出してやることなのでは?
それが教育の一つの目的では?

2012年5月31日木曜日

あきらめる力?


大学生って色々やることがある。
実際は遊んでないとやってらんないけど、仮に遊ばずに自分を磨くことのみ集中していても時間が足らない。

僕の恩師が言ってたのは「時間は作るものだ」ということ。
これは、至言だとも思う。

要は一日の中には絶対無駄な時間があるので、それを削れば時間が生み出せるという。

では無駄な時間なんて本当にあるのかわからないし、どれが無駄かわからないという意見はどうなるのだろう。

僕なりの解決策は、先に予定を入れてしまえばいいんじゃないかなって思う。
凄い言葉をもう一つ「読書する時間がないのではない。読書をしないから時間がないのだ」
そうなのか!
って思いましたよ。
まあ実感でもそんなことがありますね。


でも実際、今の僕の状態はパンク状態なんですよね。
先生からは毎日新聞を読めなんて言われるけど、たまにしか読めません(完全に言いわけです)


そんな状態なので、改善策を考えた結果、あきらめる力も大切なのかもなあって思います。
考えてみれば、あの図書館に入っている本を生きている間には読み終わすことはできないのです。
そればっかりやってる人でもあきらめていることはあるはずです。

なので、僕らも、パンクしそうになったらあきらめることも必要だと思います。

今週末は遊びにでも行きましょうかね。

2012年5月29日火曜日

ブログの勧め

なんでみんなブログとか書かないんだろう。
その理由として考えられるのは
1面倒くさい
2自分のブログなんて誰も興味ない
3何を書けばいいかわからない。

1の面倒くさいに関してはもう仕方ない。
でも、やってるうちに楽しくなってくるということがあるのは事実。
俺は昔では考えられなかったが、文章を作るのが楽しくなった。
昔から作文は得意だったが面倒くさいのは嫌だった。
しかしどういうわけか、今ではツイッターやブログの更新はまめになった。
更新しているうちに文章がだんだんうまくなっていくのも感じますし。

2,3の理由に言いたいのは、
確かに自分は大した人間ではないので、自分はなにも人に見せるものはないっていう考えは間違いじゃないかな。

例えば、俺は絵には興味がない。
だから今の段階で絵について書かれたブログを読もうなんて思わない。
だけど、なんか知れないけど絵をかきたくなることがあったら、まず書いてみるけど案の定うまく書けないので、ググると思う。

そんなとき超初歩的な絵の描き方の説明をしている人がいたら俺はすごい助かる。
その人には大したことではなくても、俺には超欲しい情報だ。

こんなことはよくある。
案外、自分のやってること、詳しいことを知りたがっている人っているもんだと思う。

2012年5月26日土曜日

大学の勉強

よく大学の勉強は高校までの暗記と違って、考えることが大切だっていう人がいる。
でもこれって少しちがうような気がする。
勿論、多くの大学生が高校までの勉強と違うことは実感していると思うし、僕もそう感じるわけだが。

そもそも考えることに必要な前提知識はどうだろうか。
それは、一部は高校までの教育で身につけた暗記の知識だろう。

しかし、それでは知識は明らかに足りない。
例としては、高校までの社会で学んだ科目が日本史と倫理だったとしよう。
しかし、世界史は不要だということにはならない。
大学の勉強はそれらが既に身についていることが前提である。

つまり、大学生といえど、知識は当然足りないことになる。
では知識はどうやって身につけるか。
それは暗記である。
暗記とはいえ、高校みたいに用語集や参考書が充実しているわけではない。
なので、その分野の本を読むことになることが多いと思う。

そのような本を高校まで使っていた暗記術を使って読んでみたらどうだろうか?
例えば、寝る前に覚えたことは忘れにくいのでそこで本を読むとか。

受験のノウハウを捨てずに、使えるところは使ってみるといいんじゃないかなって思います。

2012年5月21日月曜日

坂口綾優さんについて思ったこと


今何かと話題の坂口さん。
http://news.mynavi.jp/news/2012/05/18/123/

僕は彼女を擁護はしませんが素晴らしいと思います。

勉強不足で誰でももらえるという噂の奨学金をもらえなくなったところ、このような支援を募る企画に参加。その使途が不明慮かつ不適切なものだとして批判を集めています。

まず彼女のこのような行動(ネットでは乞食だとも言われますね)は立派なものではありません。
こういう行動をやったらお金あげるよと言われても多くの人々がやらないでしょう。
それは一連の行動が恥ずべき行為だからかもしれません。
僕だったらそんな図太いことはできません(まず、奨学金をきられた時点で恥ずかしいと思います)。

なので彼女の行動は褒められたものじゃないかもしれません。
だから批判が殺到しているのでしょう。


しかしそんな彼女を僕はすごい人だなとも思います。
まずは周りを気にせず、図太さを表に出すこと。
僕だったら世間体とかあるし、こんなことはできませんが、彼女はやってしまう。
それを変な奴と考えるか、突き抜けていると考えるか(たぶん二つとも同じ意味なのだと僕は思いますが)。

次にその影響力です。
行動の是非はともかくここまでの影響力を与えたのは彼女の才能だと思います。
しかも彼女のもとには既に多額の募金があるというではないですか。
Twitterのフォロワーも多くはない僕からしたらその影響力は素晴らしいです。


とはいえ、僕は恐らく彼女には投資はしないでしょう。
総合的に考えて社会や自分にリターンがあるとは思えません。

投資をしたところでせいぜい自分の宣伝をしてくれるだけ。
個人の僕には何のメリットもありません。


それなら僕は山沢さんのような人に投資をしたいですかね。
 

2012年4月28日土曜日

アイデアの生み方

今日は実用的にアイデアの生み方について考えてみよう。
まず僕は『思考の整理学』の内容を少し引用しようしようかと思う。

著者はアイデアは机の上で考えていても生まれてこない。
何かをしているときに生まれるものだという。

特に、電車の中、トイレの中、ベッドの中でアイデアが浮かびやすいという。

これについては僕は反論しないし、結構正しいと思う。
特に電車の中はいい。
あの揺れが何か影響をしているのかわからないが、とにかくあの時間で色々なことが浮かんでくる。

しかし、この三つよりもアイデアが浮かんでくる時間を付け足したいと思う。
それは授業中だ。

いや別に授業中に別のことを考えてるわけではないですよ。

ただ、授業ってのはいつも新しいことを学ぶことになるので、学んだことの中で、「これがあったか」と思うものが出てくるんです。

こういう授業の受け方もありだと思いますよ。
少なくとも受動的な態度ではなく、授業中に思考しているのでよいことだと思います。


ということを哲学の授業のときに思いました。
、、ちゃんと単位もとらなきゃね。

2012年4月22日日曜日

怒り

今日、ちょっと不快なことがあった。
そこからいくつか学ぶものがあったので、このエントリ。

とりあえず、事情を説明すると、
ある公共の施設を利用していた僕ら。

帰り際、僕は皆が帰った後ごみが散乱しているのを見つけた。
そこで、A、Bというやつと一緒に後片付けをして帰ることにした。

片付けが終わって、帰ろうとしたら既に施錠されていた。
因みに施錠をする人(後に出てくる守衛とは別の人物)は僕らが片付けするのをみていた。(つまり中に僕らがいるのを確認していたので僕らも施錠されることはないと思った)

助けを呼んだが時間がかかってなかなか来ないので、その門を飛び越えることにした。(公共の施設なので飛び越えるのはよくないが雨が降っているので、僕らも我慢できなかった)

やっと出られた僕らは守衛がいるところまできた。
するとそこには助けを呼んだCがいた。

飛び越えてきた旨を伝え、待っていてくれたことの感謝を言うや否や、
「いいから守衛の方に謝れよ!!」と怒ってきた。

状況を理解してないがとりあえず守衛に謝ると、守衛は
「これからは気を付けて。うちの職員にも言っとくけどさ。」

とりあえず、その場を後にしたが俺、A、Bは納得していない。
すかさず俺は「なんで俺らが怒られなきゃいけないの!」
といった。

そんな姿を見てCはなお怒っていたようだが、僕らは怒って帰った。
そのあとはそれぞれに文句を垂れていたが、誰が悪いのかを状況を整理しあって話して帰った。
因みにまだかなり怒ってます。

僕はいきなりCに怒られたのが納得できず、Cに対して怒りを覚えた。(あとから、守衛の言動にも問題があったと思うが、守衛の言葉は状況把握に頭がいっぱいで上の空だった。)

Aは当然Cにも怒っていたが、守衛の言動にも怒っていた。
少しだけ守衛の方に多く怒っていた。(彼はなぜか知らないが、公務員とかが嫌いだった)

Bは最初僕らと同じように怒ったが、すぐに怒りを鎮め、「怒っても何も生まれない」といった。
それを聞いてもなお怒りが収まらない俺とAに比べて彼はすごいと今考えてみると思う。

ということが起きた。

あとになって冷静になってみると、俺らと守衛とCはそれぞれ少し勘違いしているし、誤りだった。


僕らは、施設側のミスで閉じ込められたうえに、守衛の態度が悪かったから怒った。
それも、片付けをしてきたのに怒ってきたCにも怒りが湧いた。
また結局助けが来ないので自分たちで出たので、守衛には迷惑をかけていないので、注意される筋合いはない。

守衛は恐らく施錠する人が僕らを確認していたこと、なぜ僕らが帰るのが遅くなったのか知らないので、当然注意すべきだった。

Cは僕らが片付けをしていたことを知っていたかどうかは知らないが、とにかく僕らは守衛に迷惑をかけた。
いずれにせよ、今後も使う施設だしとりあえず謝っておこうという気持ちもあったのかもしれない。
助けを呼んだ時点でCは守衛に報告してもう一度開錠させようとしてくれたのかもしれなかった。
さらに僕らが守衛に謝ろうとしなかったうえに、それについて文句をいう僕にも怒ったかもしれなかった。

このような事情があった。
結果的には施設側のミスかもしれないが、少なくとも守衛に怒るのは少しおかしい。
ましてや俺がCに怒るのは誤り。


こんなことで学んだのは、怒りという感情は必ずしも怒るべき相手に怒っていないことがあるということ。(この場合怒るとしたら守衛に怒るべきだが俺は衝撃が大きかっただけにCに怒ってしまった)

あとは、怒っている状態でもはなしあっているうちに、状況がよく見え始めたこと。
状況を整理しなかったら未だにむかむかしていただろう。

あとはまあ皮肉だけど、いいことをしても報われないことはよくあるし、今回みたいに逆に災難な目に遭うこともある。
こんなときに腐らず、学べるものは学んだ方がお得だ。

これを書いてる今でも、頭の中では仕方ないと思いながらも少しむかむかしている。
だけど来年にでもこのことを思い出したら、いい経験だったと思うだろう。
それはただの怒りで終わらせず、新たな発見があったからだ。

2012年4月14日土曜日

反論

よく文章を書いていると、反論をしてくれる人がいる。
それは大歓迎で、寧ろこっちからお願いせねばならない。

だけど、なかには反論というより感想を言ってくる人がいる。
別にこちらはきにしなければいいのだが、「それで?」って言いたくなる。

感想っていうののはどういうことか。
Aといった俺に対して、Aは嫌いだ。
とか言う行為のこと。

俺は例えば事実関係しか述べていなかったりするのに、そこに勝手に意味づけをしてしまう人がいる。
それを価値判断とか言ったりするらしいのだが、俺が思うにこういう人はあまり議論などには向いていないと思う。

すぐ自分の尺度で考えてしまうので、自分という領域を出ずに考えるので成長も期待できない。
俺はとりあえず、価値判断を置いておいて、事実関係や主張を飲み込んで咀嚼していくという方法がいいと思う。
すぐに価値判断してしまうとそこで思考が止まるからね。

想像外

歴史とか勉強してると、普通の人間が考えないことを考え出す人がいることを知る。
相対性理論とか普通の人間には理解できない。

また、たとえそれが間違いだったとしても、自分の知らない世界について想像する人もいる。
地球の果ては滝になってるとか、恐ろしい怪物がいるとか。
宗教について難しいことを言うのは避けたいが、宗教上の逸話や神話もすべてではないにせよ、誰かが想像したことだろう。


こういう人たちはどうしてこんなに想像力が豊かなんだろうか。
それはたぶん、急に突飛押しもないこと考え出すのではなく、日頃の関心や考察の延長線上にあるのだろう。

そうなってくると、普通じゃなくて変な人がこういうものを生み出すのだ。
って言う人がいるかもしれないけど、それは違うと思う。

そもそも普通じゃない人ってどういう人なのかわからない。

言いたいのは彼らは単に興味がそちらに傾いていたからだ。
だからその点、彼女に溺愛するイケメンリア充は彼女に興味が傾いてるから変な人だし、
何事も関心がない人は(存在しないだろうが)、それはそれで変な人だと思う。

まあそういうこと。

2012年3月26日月曜日

クレヨンしんちゃん

先日、『クレヨンしんちゃん』を見ていて、思ったことがある。
しんちゃんのおバカとは正反対に、そこに出てくる大人が実に大人らしい。

特にねねちゃんのママは大人だと思う。
彼女は何歳なのかわからないが、子供の年齢を考えると、そこまでベテランというわけではなさそうだ。

彼女はしんちゃんの行動にイライラすることがよくあるが、その怒りを表すのは少なくとも彼がいない時ではないだろうか。(たまにねねちゃんはその光景を目の当りにしてしまうのだが)

また、一度怒っても、次のシーンでは楽しそうに笑っている。
あの笑顔は作り笑いではないことは言うまでもない。

何が言いたいのかというと、
大人の態度って
苦手な相手にも平等に対応することではないかと思う。

さらに、人の一部分を嫌いになっても、その人全体を嫌いにならない。


現実では、一度裏切られると、もう信用できなくなったり、
奇妙な意見を言う人の人格を否定したり。

それをいったん態度や評価を保留するというのが大人の態度なのではないだろうか。

2012年3月18日日曜日

世間2


世間について考えていたところ、またひとつ奇妙な体験をした。

ある半島に来ていたときだった。
僕は朝に海岸線を散歩していた。
すると、前から老夫婦がやってきて僕を見るなり、自然に挨拶をしてくれた。
僕は挨拶のタイミングがずれた。

僕の地元でも朝散歩しているとそのような現象は起きる。
しかし、コミュニティのメンバーということで顔見知りである。

でも今回のは違った。
どこの馬の骨か分からないものに挨拶ができる。
なんか都会ではあまりないなと月並みな気持ちになった。

そこで、もう少し思考を進めようと思ったのだが、
あの老夫婦は世間とかそういう概念から僕に挨拶をしてくれたのではないと思った。
別に僕をそのコミュニティに入れようというような、魂胆はなく
ただ前から人が来たので挨拶をしたというだけ。

だから僕はそういうものなんだなって咀嚼した。
よく考えがまとまらないけど、なんかすっきりした。

2012年3月12日月曜日

世間

今日は世間についての話。
最近自分に起こったことから二つの世間について考察してみる。

ひとつめ
この春休み中に帰省した。
ずっと地元に残っている人くらいしか遊べなかったわけだが
彼らから面白い話を聞いた。

よくある恋バナなのだが、地元の人たちは、中学生のころから世間が変わっていないらしいことを知った。
つまり、「元彼が~」という話に出てくる人が、全て地元の人で構成されていて、そのどれも僕が中学や高校で聞いたことがある人たちだった。

勿論、僕が知らない人も出てくるわけだけど、その人たちを僕が知っているかのように話を進める。

つまり世間が狭いということ。
もしかしたら、この言葉はマイナスの意味合いがあるのかもしれない。
しかし、実際はそれだけ関係が密だということ。

大学生になって、地元から出てきた俺にとっては、そのような関係があまり想像できなかったのだが、
こうして考えてみると「あなたにとって大切な人ほどすぐそばにいる」のかもしれないな。

いや、別にロマンチックな話じゃなくて、
狭い世間の中でも幸せに暮らしてるんだなあみたいな。
やっとばあちゃんたちの「隣の山口さんのところの息子さんは今年から大学生ですって」っていう世間話が分かった気がする。

それは、彼ら彼女らの中での共通の話題だったんだな。

ふたつめ
僕は世間を広げようと色々なところに出ていくんだけど、
その日は色々な大学から人が集まるやつだった。

すると、僕と話す初対面の人は、まず僕の名札を見る。
その時に彼らが見ているのは僕の名前ではなく
大学名だということに気が付いた。

大学名を見ることで、彼らは僕の何かを知ったらしい。
中には、大学名を見てうなずいていく人も居た。


大学名で知れるのはとりあえず、テストがどれほど出来るのかくらい。
しかし、僕はこの大学の名前を背負っていかなくてはいけないらしい。

就活の際も、大学名が聞かれることもあるらしい。
そのときは、それを聞いて僕個人の能力をはかる目安にするというより、
僕の属する世間を見ているらしい。

つまり、優秀な大学だったら、その友達も優秀なはずで中には官僚になっているものも多くいるだろうから、将来的に貢献してくれそうだ。
、みたいな感じ。



ひとつめは世間なんか気にしなくても幸せに生きていけるよっていう話。
ふたつめは世間は今後もあなたから離れないよっていう話。

世間ってなんなんですかね。

2012年3月7日水曜日

教養不要論?

今日は教養について書いてみようと思う。
特に最近よく言われる「そんなこと知っててなんのためになるの?」というような教養不要論について。

そもそも教養とはなんだろう。
簡単に言えば、三島由紀夫の小説やシェイクスピアの戯曲をたしなむこと。
なんか頭よさそうに見えることをすること。

当然、それらはかなり難しい。
なかなか理解できる人はいない。
それを苦心して理解しても、何になるのであろう。

それでも、「教養はつけておけよ」なんて僕らの上の世代は言う。
なぜ、そんなことを言うのだろう。


それは、それが話のタネになるから。
僕らの上の世代はテレビやインターネットは満足に整備されていなかった。
つまり、共通の話題というものが今に比べて少なかった。
だから、教養っていうものは必要だった。

もう一つの理由は、それを知っていることで、貴族階級として認められていたから。
当然、当時は誰しも教育を受けられるわけではないし、ある意味「無駄な」学問をできるのはお金持ちだけであった。
内容が分かっていたかどうかではなく、教養があるようにふるまうことで、お金持ちとしてのアイデンティティを保証されたのだ。

では、現代の文脈で考えてみよう。
すると、教養の存在理由は完全に失われている。
テレビで見た話題をもって、会話をすればいいし、高級車をかえば、とりあえずアイデンティティを確立出来る。
なにも、訳わからない戯曲やコンサートを見に行く必要はないし、別にお金持ちじゃなくても、コンサートに行ける。

これが、教養不要論につながるわけ。
つまり、大学での一般教養が無意味に思えるというわけ。
今の授業カリキュラムは、このことを踏まえて、変わっているし
何かを知ることは楽しいと思う。

しかし、おおかた意味がないって思うんじゃないかな。

と、まあ教養をたたいてきたわけだが、実は僕は教養に助けてもらったことが何回かある。
つまり教養が役に立ったことがあるのだ。

その例を二つほど。

一つ目は、話に説得力が増すということ。
教養や知識ってそれだけで格が高いというか、それを持ち出されたら圧倒してしまうと思う。

僕はけっこう、相談をされるんだが、そういうとき相手からどうすればいいかを聞かれたとき
自分の考えを相手に話す。
そんなときできるだけ、たとえ話をいれるといい。
そのたとえ話に教養が出てくるというわけ。
僕なんかよりも偉い人もこういってるんだから、そうなのかもしれない。
という風に案外信じてもらえれるものだ。
教養って信頼を得るのにも有効だと思う。


二つ目は単純に知り合いが増える。
さっき、テレビの話題で十分じゃないかって言ったけど、この多様性の時代に皆が皆AKB48が好きなわけがない。
さらに、テレビ離れも起きている。

となると、テレビやインターネット以外にも話のタネを持っておくと、さらに多くの人と関われるかもしれない。

僕はあまり喋ったことがない先輩がいた。
特に話題もないから。

でもあるとき、友人が僕に新聞の一面に載っていた事件について質問をしてきた。
僕はたまたま、その辺の知識を持っていて、彼に説明してやった。

すると、それを聞いていた先輩は食いついてきて、その類の話をするようになった。
先輩は就活生ということもあり、そういう情報を欲していたらしい。
しかし、あまりまわりにそういう人がいなかった。

それからというもの、僕も色々教えてもらえるし、僕も知ったことを先輩に話すようになった。
案外、教養の繋がりは強くて、印象にも残る。


これが、最近経験した教養が役に立った例。
こうやって考えると、純粋に無駄なことってないのかもしれない。
結局なにかの役に立つのだ。

だから、もう少し、教養ってものについて考えてみよう。

[]

2012年2月25日土曜日

絶望


今日は国公立前期試験があったようだ。
俺もちょうど一年前試験を受けた。
出来栄えは、「受かったかわからないけど、後悔はない」という感じ。

そして、合格発表。
家には一人で、パソコンを起動して待っていた。
同時に緊張を紛らすために掲示板で同じ大学を受けた人ともやりとりをしていた。

ついに時間がきた。
大学のシステムはどこの大学でもクソなようで、一気にアクセスが集中すると、忽ち見れなくなってしまう。
ページを開いても、番号が出てこなかったりした。

しかし、何度かチャレンジするとだんだん見えてきた。
自分の番号を探した。
なかった。

一度深呼吸をして、もう一度探した。
やっぱりないわけだ。

今日書きたいのはその時の絶望について。
あのときは本当に消えてしまいたいと思ったし、呆然としていた。
それもそのはずで、俺は勉強のことではとりあえず、挫折したことがなかった。
別にいつも一番だったってわけじゃなくて、狙った獲物を逃さないというか、必ず自分の頑張りは点数になってた。

あの時の気持ちは経験したことがなかったし、未だにあれ以上は経験してない。

彼女に振られても、自分のミスで試合に負けても、そりゃ悲しいし自分を恨むけど、何日かしたら忘れるし次頑張ろうと思えた。


それで思ったんだが、こういう経験って本当に役立つのかってこと。
社会人は若いうちは買ってでも失敗をしろっていう。

本当にそうなんだろうか。
若いうちにする失敗と、大人になってからの失敗は違うのだろうか。

勿論、失敗してしまった以上はそこから学ばなくては勿体ない。

特にこういう絶望を味わうことは何の意味があるのだろうか。
本当に人間として大きくなれるのだろうか。

2012年1月15日日曜日

センター試験

これから、ブログをちゃんと書こうかなって思いました。
思ったことをいつもはツイッターに書くわけだけど、長い文章書けないからね。
センター試験が終わったらしいので、思ったことが、、

中には受験失敗する人っていると思うんです。
俺もそのうちの一人だけど、当時は浪人したいって思った。
ただ、もう一年大学受験の勉強という枠の中で勉強するのか、その枠を取っ払って勉強するのどっちがいいかなって思って、浪人せずに今の大学に来ました。
学歴コンプレックスがあったら、大学院に行きたいと漠然に思っていたので、そこで有名な大学に行ければいいと思っていました。

最近、こんなことを聞きました。1浪すると生涯賃金が2000万損したことになるらしい。
明治かどっかの教授が統計で出してるので、ある程度信頼できる。
だから何?と聞かれればそれまでだが、要は社会に貢献するのが遅くなるということ。

人それぞれでしょ!っていう言葉は便利だからあまり使いたくない。
だから、あえて言うと浪人はすべきではない。
特に感情に任せて浪人すべきではない。


本音はどっちでもいいじゃんなんだけど・・・

とりあえず、長い文章書きたくなったらこっちに書こう。
ほそぼそとやっていって、ある程度まとまって書けるようになったらみんなに見てもらおうか。